北海道大学 大学院歯学研究院 口腔健康科学分野 高齢者歯科学教室

Gerodontology, Department of Oral Health Science, Faculty of Dental Medicine, Hokkaido University

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心因的な問題から口腔内に異常が現れる病態

歯科心身症

 口の中に何らかの症状が現れているのに、治療してもなかなかよくならない、ということはないだろうか。こうした中には、「歯科心身症」が疑われるケースもあるという。歯科心身症とは近年普及しつつある考え方で、口の中の異常が心因的な問題に由来している病態を指す。従って一般の歯科では診療することのできない症状でもある。北海道大学大学院(北区)歯学研究科高齢者歯科学教室の山崎裕教授に解説して頂こう。

歯科心身症の約半数を占める舌痛症

 原因不明の身体の不調を現す「不定愁訴」という考え方がある。不定愁訴といわれる症状には、頭痛や腰痛、不眠、慢性疲労などさまざまな訴えが挙げられるが、血圧や心電図、血液検査などを行っても検査数値に問題がみつからず、原因となる病気がみつからない状態をいう。こうした不定愁訴の中には、自律神経の失調やうつなど精神的な要因から症状が現れている場合があるという。歯科心身症も同様で、主に心因的な問題から口の中に何らかの症状が現れる病態と考えることができる。
「歯科心身症の約半数を占めるのが『舌痛症』です。舌痛症はその名称通り、舌の先や縁がヒリヒリ、ピリピリと痛む症状がみられます。時には灼熱感と呼ばれる、火傷をしたような強い痛みを感じるケースもあります。女性に多く、とくに60歳前後の方に多くみられています。
舌の痛みは舌炎やアフタ性口内炎、扁平苔癬などの口腔粘膜疾患や、義歯、不良補綴物による障害、口腔乾燥症、口腔カンジダ症、舌癌なども要因となることがあります。これらの疾患との鑑別を行い、痛みの要因がみつからなければ、舌痛症が疑われます。痛みが6ヵ月以上継続するようであれば、慢性疼痛という状態に該当します」(山崎教授)。

口腔内のネバつきやザラつきを訴える口腔内異常感症

 口腔内に異常がないにも関わらず、異常な感覚を感じる「口腔内異常感症」も心因的な要因から起こることがある。異常な感覚とは、例えば口の中がネバネバ、ザラザラするといったことや、口腔乾燥や味覚異常などがみられることもある。こうした異常な感覚を訴え、山崎教授のもとを訪れる患者さんは少なくなく、口の中のネバつきやザラつきは日常生活に支障を来すほどのレベルに至っている場合が多い。
 口腔乾燥はいわゆるドライマウスとして、近年よく知られるようになった症状だが、加齢や薬の副作用、生活習慣などが大きな要因とされ、診断時にはそうした背景を探り、鑑別を行うことが重要となる。また、口腔乾燥がある場合は、味覚異常を伴うことも少なくないという。味覚異常とは、味覚が減退、消失するか、異常な味を感じる状態を指す。
 「しょうゆを苦く感じたり、何も食事をしていないのに口の中が苦い、すっぱいなどと感じるケースもあります。患者さんによっては何を食べてもおいしくないと感じる方もいます。口の中には何もないのに、苦さや渋さを感じるのは自発性異常味覚と呼ばれ、口腔カンジダ症が要因となることがあります。また、味覚異常は味を伝える神経や脳の障害、消化器疾患、腎障害、肝障害、糖尿病、薬の副作用なども要因となることがあるので、鑑別診断が必要です」。

非常に重要な唾液の働き

 口腔内が乾燥すると、舌の表面に食物が付着しやすくなり、虫歯や歯周病を引き起こす原因となる。悪化すると摂食嚥下障害や感染症などを引き起こす可能性もあり、そのリスクは想像以上に大きいといえるだろう。
 「口腔乾燥を避けるには、唾液の十分な分泌を促す必要があります。唾液の働きは非常に重要で、消化作用のほか、歯の表面や隙間に付着したプラークや食べかすを洗い流す自浄作用、病原微生物に抵抗する抗菌作用があります。
 また、唾液に含まれるムチンという物質は粘膜を保護し、乾燥を抑える保湿効果があります。唾液の少なくなったお年寄りが熱いお茶を飲めなくなるのは、唾液による希釈作用と粘膜を保護するムチンが減少することによるものです。
 さらに唾液には緩衝作用といって、口の中のpHを一定にし、歯の表面が溶けるのを防ぐ役割があります。通常、食べ物を食べると口の中は酸性に傾き、虫歯も発生しやすい環境になるのですが、唾液がそれを中和しています。
 最近は逆流性食道炎の問題がよく指摘されていますが、唾液の分泌が低下している場合は胃の酸性物質が食道にあがっても中和できず、さまざまな問題を起こしてしまいます。唾液には口腔内の傷を治す効果もあり、いかに唾液が重要であるかがお分かり頂けるかと思います」。

歯に異常はないのに痛みが消えない非定型歯痛

 最近、指摘されるようになったのが、「非定型歯痛」と呼ばれる病態。歯や歯の周囲にまったく異常はみられないものの、患者さんは慢性的に歯の痛みを感じるという。やはり、不安やストレスなどの心因的な要因が引き金となるケースがあると考えられている。
 「非定型歯痛は徐々に知られるようになったとはいえ、すべての歯科医が理解する段階には達していません。そこで問題となるのが、非定型歯痛の知識がない歯科で、患者さんの訴えのまま、治療を行ってしまうケースです。訴えに応じて歯を削ったり、神経を抜いたりしても症状が治まらず、患者さんの要望で歯まで抜いてしまうといったケースがあるのです。歯を抜けば、理論上痛みが起こるはずはないのですが、非定型歯痛の場合は痛みが治まりません。こうして治療するほどに悪循環に陥ってしまう可能性があるのです。
 また、このような治療を繰り返していると、歯の根の先にある細い神経を何度も刺激してしまい、神経障害性疼痛という痛みを発症させてしまう可能性もあります。このように心因性から来る痛みが考えられる場合、悪くない歯の治療を行わないというのが、歯科心身症治療の基本的な考え方です」。

歯科心身症で行われている治療法

 舌痛症をはじめとして、口腔内異常感症、非定型歯痛は歯科心身症の代表的な疾患だが、診断にあたっては、心因的な要素も要因となるだけに、他の疾患の有無はもちろん、生活習慣や生活背景を探ることが重要となる。また、山崎教授は、歯科心身症は性格的にまじめで、几帳面な人がなりやすい傾向もあると話し、そうした面を把握するアプローチも必要となっている。そのうえで、歯科心身症が疑われるようであれば、精神科の領域とも重なるため、精神科や心療内科を紹介することも多い。しかし、口腔内だけの症状だと精神科で診療を行わないケースもあるなど、歯科心身症をめぐる治療の現状は患者さんによってさまざまだといえるようだ。
 歯科心身症の治療法としては、抗うつ薬が奏効するケースが多いという。抗うつ薬には慢性疼痛に効果を発揮する機序もあり、痛みの緩和をメインに処方することもある。ただし、認知症の傾向がある場合に安易に処方すると、認知症の症状を進行させる可能性もあることが指摘されており、漢方薬に切り替えることもある。
 薬物療法以外では、認知行動療法的なアプローチが効果を上げることもあるという。認知行動療法とは、心理療法の技法のひとつで、誤った認知や陥りがちな思考パターンの癖を客観的でよりよい方向へと修正することを目指す方法。
 「舌痛症の最大の特徴は、ふだん痛みを感じていても、食事の際には痛みを感じないか軽快するということです。口内炎がある場合は、口の中に刺激がなければあまり痛みを感じませんが、食事をするとさまざまな刺激が口の中に起こりますから、痛みを感じます。舌痛症は通常、口の中で痛みを感じる病気とはまったく逆の症状がみられるのです。
 舌痛症における認知行動療法では、実際には舌が直接の痛みの原因ではないことを理解してもらうことが重要です。舌痛症の場合、脳内の神経回路が混線状態になっているため、特殊な神経痛のような状態になり舌の感覚が異常に過敏になっていることを説明します。また、人間の脳内の神経回路はその時に一番活発に活動している回路がその時点で意識に上り易くなるため、食事の際には、脳への舌の痛みの情報以上に、質的にも量的にも多い情報が脳に送られますので、舌の痛みは気にならなくなります。食事でなくても、何か別に集中するものがあれば、舌の痛みは感じにくくなるはずです。
 もし、舌の異常が原因であれば、原因に対する治療、例えば鎮痛薬や抗生物質、抗真菌薬などを使えば痛みは緩和されます。痛みが緩和されないのは舌に痛みの要因がないからであり、そうしたことをひとつひとつ理解して頂くことがとても重要です。そして、症状が少しでも良くなってきたら、まだ完全に良くならないと悲観的に考えるのではなく、最初の時よりもこれだけ良くなったと良い方向に考えを修正するように促し、痛みにとらわれないで今までと同じ生活が送られるように指導します」。
 舌痛症には日内変動も多くみられ、午前中は比較的楽に過ごせ、夕方から夜にかけて痛みを強く感じる傾向が強いという。このことも、身体的な病気や障害による痛みではなく、心因性の舌痛症の特徴として理解を促しているという。
 「舌痛症になると、舌を安静にしなければならないと思い、できるだけ刺激を与えないよう、舌を動かさなくなってしまう患者さんもいらっしゃいます。しかし、人間の体は動かなければ血液の循環が悪くなり、発痛物質が溜まりやすくなります。そうなると、ますます痛みを感じやすくなり、より動かないようになるという悪循環に陥りかねません。
 舌を動かさなければ血行だけでなく、唾液の分泌も悪くなり、口腔乾燥がおきやすくなります。痛みを緩和するには、できるだけ舌を動かし、マッサージをするほうがいいというアドバイスも大切です」。
 薬物療法や認知行動によって7~8割の症例は症状が改善しているというが、100%の完治には至らないケースも多い。心因的な要因が問題となるだけに、治療が難しいのが現状だ。
 「痛みをゼロにすることを目標にするのではなく、日常生活に支障のない状態を目指し、同時に痛みをはじめとした症状との共存を受け入れてもらうことが大切です。初期の段階ではまず症状を緩和することが目標となりますが、症状が落ち着いてきたら心にゆとりが生まれてきます。そのときに、自己を客観的に分析してもらい、なぜ楽になってきたのか、そして歯科心身症がなぜ起こっているのかを理解してもらうことが、改善の糸口につながるといえるでしょう」。

口腔内セネストパチー、自臭症とは

 このほかに頻度は多くないものの、歯科心身症に分類される症状について紹介しておこう。ひとつは、「自臭症」といって、歯周病や虫歯をはじめ口臭の原因となる疾患がないにも関わらず、周囲の人から嫌悪感を抱かれるほどの口臭を自分が発していると思い込んでしまう病態。
 「北海道ではあまり報告されていませんが、東京では多いようです。高校生くらいの年齢も含め、若い患者さんが多いのも特徴です。地下鉄などで並んでいるときに、電車が入ってくると風圧で顔をそむけるものですが、このとき患者さんは自分の口臭が原因で顔をそむけていると思い込んでしまうのです。こういった意識をもってしまうのが自臭症の患者さんの傾向です。
 自臭症の患者さんは臭いが気になるわけですから、歯みがきや口の中のケアは人一倍行っており、口臭はほとんどないといえるでしょう。従って、心因的な要素が原因になっている可能性が高いと考えられます。
 口臭や体臭は誰でもあるものといえ、自臭症の場合には他人が気になるレベルではないことを客観的に理解してもらうことが必要で、精神的なケアが必要となるでしょう」。
 もうひとつは「口腔内セネストパチー」といって、口腔内の異常感を奇妙な表現で、執拗に訴える病態をいう。セネストパチーは、体感異常症、体感幻覚症などの意で、1907年にフランスで報告され、難治性の疾患とされている。
 山崎教授が診療にあたった例(70代・女性)では、口の中から砂が出てきて口腔全体に張り付くのを主訴として、以降「丸い塊」「フィルム」「漢方薬」「セロハン」「ブドウ」様の異物が口内に出現すると感じるようになった。異物は口腔内が苦しくなるため吐き出さずにはいられず、外出も困難な状態に陥ったという。口腔乾燥症や口腔カンジダ症も併発しており、その治療で症状は多少改善したものの、前述した異物が複数同時に出現するようになり、精神科の受診に至った。
 この症例は、口腔内セネストパチーを発症する前に、本人が長男の嫁と大喧嘩をして不仲になっていたことが後に判明し、和解できるよう働きかけも行った。その結果、口腔内の異物が完全に消滅してはいないものの、日常生活を何とか過ごすことができるまでに改善。数か月間隔で山崎教授のもとを受診し、「(異物と)付き合っていくしかないですね」「もうあきらめています」などと話しているという。
 「口腔内セネストパチーで出現する異物は、患者さんによってさまざまです。昆虫やみみずなどの訴えも多く聞かれています。現在、有効な治療法はみつかっておらず、患者さんに応じて症状を少しでも和らげ、生活リズムを整えられる対応が勧められています。
この患者さんの場合は初診時から奇妙な訴えを十分傾聴し、共感したうえで、口腔内の感覚が鋭敏になると通常は感じないことを感じるようになる場合があると、毎回説明しました。患者さんに対して支持的な精神療法と生活指導を実施したことで寛解を得られた症例といえます。
 超高齢者社会に突入し、高齢者の歯科受診率も増加しています。今後も歯科心身症も含めて積極的に取り組んでいきたいと思います」。