ご挨拶

 
 

口腔生理学教室の近況

 口腔生理学教室(旧口腔生理細胞情報学教室)は船出から16年が経過しました。令和2年2月に乾賢准教授が着任し活動体制が強化されました。これまで以上に活性化が期待されます。目下,スタッフと大学院生の協力を得て,和気藹々と研究と教育に励んでいます。当教室で研究生活を送った大学院生もそれぞれに研究成果を上げて11人が学位(博士)を取得しました。また,彼らに続く大学院生が自ら問題を発見し解決するべくそれぞれの観点から摂食行動の中枢メカニズムについて研究を進めています。教室の研究基盤も固まってきた感があり,さらなるイノベーションを起こして研究を発展させて行きたいと決意を新たにしています。

 私は岡山大学歯学部を4期生として卒業後すぐに研究の道に進み,主に中枢神経系の電気生理学的研究を続けて参りました。大きな研究テーマは「脳と摂食行動」です。脳による食行動の調節機序と食行動が脳に与える影響について,特に興味を持っています。生体の調節機序を考えるときに重要なのが,“ホメオスタシス”です。例えば,脳の神経細胞がエネルギーとして利用できるのはブドウ糖のみで,脳の神経細胞の正常な活動を維持するためには,食事により炭水化物を摂取して血中のブドウ糖濃度を一定以上に保っておく必要があります。生体の内部環境はこの血糖値も含めて,一定の揺らぎのなかで恒常性を保っています。この内部環境の動的恒常状態を生体の“ホメオスタシス”と呼び,自律神経系の働きによって絶妙に調節されております。多くの病態は“ホメオスタシス”が崩れた状態と捉えることができます。つまり,病態を知るためには生体の正常機能を理解する必要があり,これを研究する学問である生理学は,19世紀初頭から実験医学として発展し今日までに生命の正常機能に関する研究の集大成となりました。歯学部の学生諸君には生理学・口腔生理学の講義および実習を通じて,この集大成について学び,生命の理について理解を深めて頂こうと思っております。

 今日の日本社会では老若男女を問わず,まず飢えとは無縁であり,むしろ肥満や成人病などの原因となるカロリー摂りすぎを心配しなければなりません。また,平均寿命も世界トップクラスであり,さらに再生医療によってもっと寿命が延びることが想定され,物質的・技術的にたいへん豊かな時代であります。最近,「食育」という言葉をよく耳にするようになりましたが,食生活や食文化を再認識し,食についての知識を向上させて,より幸福に長生きできるようにしようというもので,平和で豊かな社会であればこそのニーズであります。このような時代において,歯科医学の果たす役割は益々重要になっていくものと考えています。歯科医学はもともと延命のためというよりは,生活の質(QOL)の向上に重点が置かれた領域で,中でも口腔生理学は“顎口腔領域の感覚と機能”を研究し“口から食べること”の意義を明らかにしてきており,最も時代のニーズに答えていくことができる分野ではないかと考えています。21世紀における生理学・口腔生理学研究の進むべき方向については多々議論がありますが,私としてはこれまでの“生きていることの仕組み”の研究に加えて,人が“より幸福に生きるための仕組み”の研究に発展させていくことが時代のニーズではないかと思っています。

 私がこれまでに携わってきた脳科学および神経科学はこの半世紀でめざましい発展を遂げ,“心は脳で作られる”ことを誰もが疑わない時代になりましたが,実は脳の仕組みの解明はまだまだこれからで,21世紀の大きな研究課題の一つとして「脳と心」の問題があります。私は,歯科医療は食行動に関する機能回復のみならず,食行動と脳(心)の問題についても担当領域を広げることができると考えています。最近,きれる子供の脳の発育と食生活との関連が取りざたされています。食生活の乱れが精神的ストレスを増強し,情緒を破綻させるという論理です。直感的にはたぶんそうであろうと推測できますが,今のところ科学的根拠に乏しいと言わざるを得ません。また,食べることと脳の神経活動や免疫調節との関係なども科学的に解き明かすべきたいへん興味ある研究領域であると考えております。これらを一言で申しますと,「おいしく食べることを科学する」といったところかと思います。脳研究の立場から歯科領域を見てみるとこのほかにも色々と興味深いことがたくさんあります。歯科医療の可能性を広げるためにも,着実に科学的根拠を積み上げて行き,口腔生理学および歯科医学研究の方向性を模索しながら,新たな分野を創出すべくチャレンジしていきたいと思っております。

我々の研究テーマを端的に表現するなら「摂食行動および口腔機能・感覚を制御する中枢神経機構に関する神経生理学的研究」です。脳スライス法,電気生理学,神経活動を可視化する免疫組織化学および遺伝子改変,行動解析,ヒトを対象にした非侵襲的脳機能計測法・脳刺激法などの手法を用いて実験を行っています。当教室の研究活動の基本はサイエンティストとしての真摯な態度と人間としての自然な態度を貫くことです。客観性,再現性,反証可能性そして新規性という科学の基本的な考え方と手法を堅持してこれを実行しています。当教室では実験により証明されないものは必ず否定され,実験により証明された内容は肯定されます。シンプルです。成果主義の風潮に迎合すことを避け,揺るがぬ意思と研究理念を堅持して,時に幸運を待ち,興味深い生命現象の機序を探究し真理に近づいた実感が得られたときに至福の快感となり,これがサイエンスの神髄であると考えています。我々の目的は生命科学の新たな概念をつくることです。当研究室にて研究に従事した諸氏はサイエンスの神髄を真摯に受けとめてくれたと確信しています。生涯研究マインドを持ち続け,学問を広めて他者との共感を得ることで皆の人生が豊になれば幸いです。